宮司よりひとこと

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即位の礼と三種の神器【更新日】平成30年12月3日

御代替わりの年には、数々の儀式が執り行われます。中でも新帝が即位される時に行われる「剣璽けんじとう承継の儀」は、天皇の御しるしである剣と玉と天皇印と国印を受け継ぐ儀式です。神話の「天の岩戸開き」に、スサノオの乱暴狼藉によって、岩戸に隠れられたアマテラスの再現を願って、祭りが執り行われます。天の香久山の榊を立て、上の枝に勾玉を、中の枝に八咫鏡が飾られ、神々の祈りと踊りと笑いによって、岩戸が開かれました。その後スサノオは高天の原を追放され、出雲の国でオロチを退治します。その尻尾から立派な剣が出てきたので、アマテラスに献上しました。その剣が天叢雲剣で、後にヤマトタケルが東国平定に際して火攻めに合い、草を薙いで難を逃れたところから、草薙剣と呼ばれるようになりました。玉と鏡とこの剣が三種の神器です。

アマテラスは孫のニニギの天孫降臨に際して三種の神器を授け、やがて神武天皇から歴代の天皇に受け継がれてきました。神話に登場する本体の八咫鏡は、第十代崇神天皇の御代に宮中の外に移され、巡り巡って伊勢の内宮に祀られました。故にその写しが、玉と共に宮中に鎮座し、剣はヤマトタケル以後、熱田神宮に祀られましたので、その代わりとして分身が造られ、これも宮中に鎮座していました。源平合戦の時に、安徳天皇の入水で三種の神器が海中に没しましたが、木箱に入っていた玉と鏡は回収され、剣は行方知れずとなり、伊勢神宮より奉られた剣が代用され、それぞれ宮中に鎮座しています。鏡は宮中の賢所に鎮座しているので、剣と玉が即位の礼で受け継がれるのです。三種の神器が天皇の御しるしであり、大切な儀式が神話から今も受け継がれているのです。

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御代替わりと元号【更新日】平成30年11月1日

平成の御代も残り少なくなりました。明年の5月より元号が新しくなります。元号とはその年に付ける称号のことで、第36代孝徳天皇645年に初めて、「大化」と名付けられました。天皇ご一代で何度も変わった時代もありますので、これまでに240余の元号があります。

天皇ご一代で一つの元号、即ち「一世一元」の制度は、明治改元の詔によるものです。ところが今上天皇のご公務があまりにも多忙となり、高齢の身では職務を全うすることが困難となったために、1昨年に譲位の言葉が発せられました。明年4月30日に「退位礼正殿の儀」、5月1日に新天皇が皇位の象徴である三種の神器の、剣や勾玉等を引き継がれる「剣璽等承継の儀(即位の儀)」、10月22日に新天皇が即位を国内外に宣言される「即位の礼正殿の儀」、11月14-15日に国家国民の平安や、五穀豊穣を祈る「大嘗祭」がとり行われます。

毎年11月23日に全国の神社で新嘗祭が斎行されますが、これは新穀に感謝する1年で一番大事な祭礼です。この日宮中の神嘉殿では、23日の夜を徹して、陛下自らご奉仕され、今年の新穀を神々と共食します。天皇が即位されて初めてこれを行うのが大嘗祭で、大嘗宮という特設の建物でとり行われます。「大嘗祭」を行うに当たっては、全国から「悠紀田」、「主基田」という神聖な田が選ばれます。天皇は全国を代表する二田から収穫した神聖な新穀を、大嘗宮で神々と共に召し上がります。

これらの儀式は神代の昔、天孫降臨に際して、天照大御神が邇邇芸命に稲穂で統治を任せた故事によるものです。明年の御代替わりは数々の儀式を通じて、日本の歴史と伝統、国柄や大本を学ぶ絶好の機会ともなるのです。

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平国祭【更新日】平成30年9月19日

祭りという言葉は、神に仕えマツル、神に衣食をたてマツルところからきています。何れの神社も元旦の「歳旦祭」から始まり、作物の豊穣を祈る春の「祈年祭」、豊作を感謝する秋の「新嘗祭」、月々行われる「月次祭」、その他神社によって多種多様の祭りが執り行われます。

枚岡神社では作物の豊凶を占う「粥占神事」、年末に新しい注連縄を掛け替える「注連縄掛け神事」、通称「お笑い神事」は、特殊神事として市の文化財に指定されています。幕末まで宮中より勅使が幣帛を献上されていたその名残の「枚岡祭」、23台の太鼓台が勢揃いして、境内が立錐の余地が無くなる「秋郷祭」等、数々の祭礼があります。中でも「平国祭」は、わが国の建国と当社創建を伝える大事な祭りとして、古くから斎行されてきました。平国と書いて「くにむけ」と読みます。神話のヤマトタケルの諸国平定、大国主命の国譲り、神武天皇の建国等にこの言葉が出てきます。

祭礼は5月21日で、宮司から矛を受けた禰宜が、斎庭の中央で左、右、左と矛を振って、矛の元を大地に力強く打ち、これを三度繰り返す所作が、古くから受け継ぎ、伝えられているのです。これは神武東征の砌、神事宗源、天孫輔弼と称えられた天児屋根命を生駒の神津嶽にお祀りし、その3年後に橿原で建国が叶いました。矛は武器というよりも御神威を表わす威儀物で、神武天皇のご威徳の象徴でもあります。枚岡のご神威と神武天皇のご威徳の象徴である矛の力によって建国されたことを物語る祭りなのです。

因みに権力で統治するのが領有(うしはく)で、威徳で統治するのが治(しら)すです。歴代の天皇は後者の方に心を尽くして来られたのです。

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子供ひらおか塾【更新日】平成30年7月4日

枚岡神社では夏休みを利用して、「子供ひらおか塾」を開催しています。産経新聞が主催で、今年7回目を数え、毎年小学生と父兄ら合わせて100名近くが集まります。まず神前で参拝の作法を教え、簡単な祝詞をみんなで唱えて、神様に朝の挨拶をすませます。この後場所を変えて、ほんの少し正座をします。戦後の洋風化と、世の中が便利になるにつれて筋力が衰え、背筋が曲がった子供が増えているからです。

かつて当たり前であったわが国の伝統である正座が出来なくなっているのです。万延元年(1860)に、勝海舟一行が咸臨丸でサンフランシスコに行きました。日本の士たちが誰一人テーブルに肘を付かず、椅子に背もたれせず、背筋を伸ばして凛とした美しい姿に、米国の人たちが深く感銘されたと言われています。これは日本人の誇りでもあるのです。猫背の多い子供たちに、顎を引き、背筋を伸ばして正座させると、凛として見違えるような美しい姿に変身します。これが健康にも繋がるのです。この凛とした姿で、神話の冒頭にある、「天地あめつち初発はじめとき高天たかまはらりませるかみは、天御中主神あめのみなかぬしのかみつぎ高御産霊神たかみむすびのかみつぎ神産霊神かみむすびのかみ・・・・」と、声高らかに素読します。意味が分からなくても、この名文が大人になって蘇ってくるのです。

この他、氏子青年会が演じる神話の紙芝居で、日本の歴史の大事な根っ子の部分を教え、そうめん流しや、境内の杜を散策して、大自然の恩恵によって生かされていることを学びます。子供たちは鎮守の杜に入ると、元気が蘇って目が輝いてきます。日本の歴史や文化を自然の中で学び、元気よく成長してもらうために毎年開催しているのです。

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枚岡と平岡【更新日】平成30年6月1日

平成21年(2009)に、奇しきご縁をいただいて、枚岡神社の宮司に就任いたしました。元春日と言われているのは、同社の神々が春日大社に勧請されたからです。2680年の歴史を有し、神事宗源(神事の大元)の神、天孫輔弼(皇室守護)の神と称えられ、明治の御代には「官幣大社」に列せられた、天下に名高い名社でした。ところが地元以外で名刺を交わすと、枚岡を正しく読んでくれません。「まいおか神社はどこにあるのか」と。春日大社に42年間奉仕していましたが、このような事は一度もなく、知名度の差を感じました。由緒記には、「ヒラオカの名の起因は、平坦にして小高き岡に祀られた故なり」とあります。

「枚岡」と「平岡」、どちらが正しいのか、という質問がよくあります。古くから「枚岡」「平岡」両方使われてきました。境内には江戸時代に奉納された石灯篭が20数基ありますが、全て「平岡」と刻まれ、駅前にある嘉永年間に立てられた石柱には、「元春日 平岡大社」となっていて、この時代は一般に「平岡」の字が使われています。ところが官幣大社になった明治からは「枚岡」に定まり、そのお蔭で読みにくゝなってしまいました。「枚岡」が読めなくなった理由は、発信不足もあるし、また近年は「一枚(ひとひら)の雲」「一枚(ひとひら)の雪」等、古語や美しい日本語が使われなくなったこともあるでしょう。また昭和42年に布施、河内、枚岡の三市が合併して東大阪市となったために、枚岡の地名が消えたのも一因です。近年「お笑い神事」が多くの参詣者で賑わい、毎年全国に紹介されるおかげで、「ひらおか」と読んでくれる人が、年々増えてきたことは嬉しい限りです。

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仮殿遷座祭と御殿の造営【更新日】平成30年5月10日

去る3月18日、枚岡神社で仮殿遷座祭が斎行されました。これはご本殿4棟を修理するに際して、神様を仮のご殿にお遷しする祭礼です。因みに修理を終えて、元のご殿にお戻りになる祭りは、「本殿遷座祭」、または「正遷座祭」と言います。これを斎行するのは再来年の秋で、足掛け3年の歳月を掛けて修復工事が行われます。

祭礼に際して神職は、通常の生活から離れて、神社で一定の期間精進潔斎をします。大祓詞を奏上し、精進食を摂り、水や湯に浸かって体の内外を清め、心身を調整して、俗から聖なる世界に近づいて行くのです。祭典当日は沐浴し、装束の上に木綿と麻の襷を掛け、冠に麻を結って神聖な姿となり、手と口を清めて参進します。所定の場で大幣で更に清めて奉仕するのです。大前で宮司が修復工事を執り行う旨の祝詞を奏上した後、消灯し、楽の音と共に第一殿のご祭神〈天児屋根命〉の御が厳かな浄暗の中をお遷りになられました。続いて第二殿のご祭神〈比売御神〉、第三殿ご祭神〈斎主命〉、第四殿のご祭神〈武瓶槌命〉の御が絹垣に囲まれて次々と遷御。次に各ご殿のご神宝が総代の手に抱かれて、仮ご殿に納まりました。次に大前に篝が焚かれ、釣灯篭が灯され、神饌をお供えし、宮司が、再来年に完成する旨の祝詞を奏上して、祭事が滞りなく厳粛裡に終了いたしました。

一昨年に収蔵庫が完成し、昨年は2680年を迎えて、その記念として二の鳥居が国産の檜で蘇り、また斎館の修復並びに増築工事が完了しました。これらは平成25年に結成した「平成の大造営」の一環事業で、いよいよ主目的である御殿の工事に取り掛かります。

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海道東征【更新日】平成30年4月11日

神武天皇の建国神話を題材に、北原白秋が詩を作り、信時潔が作曲した交響曲『海道東征』を鑑賞しました。この曲は昭和15年に皇紀2600年を奉祝して作られ、全国的に公演されていました。ところが終戦後は殆ど封印されたままでありましが、信時没後50周年、戦後70年を迎えた平成27年に再演され、大きな反響が起こり、その後毎年開催されています。八章で構成されており、第一章は<高千穂>天の沼矛ぬぼこで国が生れ、天孫降臨の後、神日本磐余彦命かむやまといわれびこのみことが東征して、国を統治することを決意する。第二章は<大和思慕>まだ見ぬ大和の国への憧れを歌う。第三章<御船出>日向の美々津港から出帆する喜びを表現。いよいよ東征が始まる。第四章<御船謡>出帆にあたって長久繁栄を寿ぐ船謡。第五章<速吸と宇狭はやすい うさ>潮流の早い海峡を越えて宇佐に着くくだり。第六章<海道回顧>宇佐を経て、筑紫(福岡)、阿岐(広島)、吉備(岡山)で準備を十分に整え、やがて浪速を目指そうとする。

そこで高千穂を出発して、これまでの行路を回顧する。第七章<白肩しらかたの津上陸> 白肩の港は、枚岡神社から西北2キロにある現在の「弥生町」。ナガスネヒコの軍勢と戦闘になり。苦難の道を歩む。第八章<天業恢弘>困難を乗り越えて、大和で神武天皇として即位する。

神代から続く神聖な天皇を中心とした日本国家。その国柄を北原白秋が最晩年、人生の集大成とした渾身の作だけあって、大和言葉や古語が頻繁に使われ、真に奥深くて格調が高く、感動々々の連続でした。素晴らしい日本の歴史や文化に、日本人が目覚めてきたのでしょうか。今時代の流れが変わろうとしています。是非ともお勧めしたい公演でした。

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安心安全な食べ物【更新日】平成30年3月1日

昨年、境内に隣接した土地が手に入りました。520㎡ですが、これを農地として活用しようと、試しに10㎡を田んぼにしました。総代が米作りをしてくれ、2升ばかりの収穫がありました。将来この土地の半分を田んぼに、残りを畑にしようと思っています。

毎日、神様にお供えする食事は、安心安全な食べ物でなくてはなりません。かつて田んぼには無数の生き物が共生循環していましたが、現状はどうでしょうか。農薬のためにカエルや蛇やトンボが少なくなり、スズメやミツバチにも異変が起きています。古事記の神武天皇や雄略天皇のところには、トンボが称えられています。太古日本の国はトンボが無数に飛び交っていたので、豊蜻蛉島(トヨアキツシマ)と呼ばれていました。アキツとはトンボのことで、想像するだけでも、嬉しく幸せになってきます。かれらは害虫を食べてくれたので、言うなれば今の農薬の代わりでもありました。だからトンボ様々であったのです。

土の中には無数の微生物がいて、その力によって元気な作物が生育します。先人はその土づくりに汗を流してきました。それが安易な農薬によって土中の微生物がダメになり、私たちの体が徐々に蝕まれているのです。そのような不自然な食べ物を、神様にささげるわけにはゆかないのです。それと機械で刈った稲穂は短くて、注連縄が作れません。そこで子供たちが米作りを体験して、食べ物の有難さと、安心安全な食物の重要性を知ってもらいたい。そして自ら刈った稲穂で、注連縄作りを学んでほしいと思っています。『沈黙の春』を出したレイチェル・カーソンが、農薬の危険性を警告して50年がたっています。

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心が探求される時代へ【更新日】平成30年2月8日

私たちの祖先は、大自然の大いなる力を神と称えて感謝してきました。人も動植物も土や水も大自然の一部であり、大いなる神の分け霊(みたま)を戴いて生かされているところから、八百万(やおよろづ)の神が生れました。そして「お天道(てんとう)さまが見てござる」と言って、悪いことを戒めたり、家に神棚を設けて、常に神様と共に生活をしてきたのです。競技と思われる相撲や競馬も、桜の花見も産湯も、みな神事としてとり行ってきました。ところが先人が作り上げた神観念が薄らぎ、霊性や心の分野が忘れられ、低次元化しています。若い家庭に神棚が無いというのもその現れです。赤子の初宮詣でや七五三詣、成人式、結婚式といった人生儀礼は神様に対する感謝と祈りだし、葬儀も神式が日本古来の風習です。神から生まれて神の元に帰って行く、と言うのが日本古来の考えなのです。

科学は加速度的に進み、便利な世の中になりました。その便利に頼りすぎて、体の奥にある38億年間困難を乗り越え、進化してきた大いなる力<自然治癒力・免疫力等>を忘れています。科学は分子生物学や量子力学の分野にまで到達しています。これによって、今まで目に見えなかった不思議な世界があることに、多くの人が認識するようになりました。目に見えない不思議な力を「神」といって称え、感謝してきた先人の次元高い感性が、実証されるようになってきたのです。天地自然の恵みに対する感謝と祈りが、いかに大切であるかを知る時代が来ているのす。目に見える物の世界は行詰まっていますが、見えない世界は無限に広がっており、21世紀は心や魂の世界が益々探求求されて行くことでしょう。

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粥占神事【更新日】平成30年1月5日

枚岡神社の粥占神事は、大阪府の文化財に指定されています。江戸時代には1月15日の小正月に行われていましたが、現在は11日に斎行され、15日に占いの結果を参詣者に公表しています。当日は竃殿内の大きな釜に米五升、小豆三升を入れ、篠竹の占竹(53本)を1束にして、釜に吊り下げます。神職が古式により、火鑽杵を回転させて火鑽臼を摩擦すること100余回、やがて煙が出て木くずに火種が生れます。湿気や神職の体調によって、これを何度も繰り返すこともあり、その苦労が多いほど、火の有難味を感じるのです。

この火種を、乾燥した杉葉が入った器に移し、加減をしながら息を吹き込み、やがて炎が出ると、固唾をのんでいた観衆から感動の声が上がります。火を作る苦労と火が生れた喜びは、遠い祖先の遺伝子に記憶されているのでしょうか、大きな感動を覚えるのです。この火が竈の薪に移され、やがて火力が強まってくると、湯気が勢いよく室の内外に沸き上がります。

16代仁徳天皇が、民の竈の煙の無いのを見て、雨漏りがする宮殿の修復を差し控えたという、麗しい物語が想い出されるのです。粥が煮えたち、竹筒の中に入った粥と小豆の多少によって、53種の農作物の豊凶を占ないます。一方火力が弱ると、黒樫で作った長さ13㎝の占木を12本竈に入れ、その焦げ具合によって、年間の晴雨や風の多少を占なうのです。農業国であった日本の国は、命に関わる自然現象は今より敏感で、真剣に神々に祈りと感謝をささげたことだろうし、農作物の豊凶占いの関心も高かったことでしょう。享和元年(1801)の『河内名所図絵』には、当時の賑々しい粥占の様子が描かれています。

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